この記事では、2017年4月15日にNHKで放送された「ブラタモリ 京都・祇園 〜日本一の花街・祇園はどうできた?〜」で紹介された内容を中心に、文献の情報や古い写真・地図を用いながら、祇園の魅力や歴史などについて深くご紹介いたします。
ブラタモリ京都祇園①:花見小路通と祇園の分業制
舞妓と芸鼓の違いとは?
番組は祇園のメインストリートである「花見小路通」からスタートします。
まず、タモリさん一行は舞妓(まいこ)さんと芸妓(げいぎ)さんと合流。
ところで、舞妓さんと芸妓さんの違いって分かりますか?
箇条書きで簡単にまとめてみました。
- 年齢は20歳ぐらいまで
- 着物は裾引という長い振袖
- だらりの帯を垂らす
- 地髪で日本髪を結い、花かんざしを挿す
- 履物は底が高い下駄(おこぼ)
- 遊興の席で音曲などを務める
- 芸者・芸子ともいう
- 舞妓が修行して芸妓になるのが一般的
- 着物は無地のものが多い
- 髪はかつらを使用
お茶屋・置屋・仕出し屋
祇園にはお茶屋がたくさんあります。
お茶屋といってもお茶を飲むお店ではなく、舞妓・芸妓の芸を楽しみながら、お客さんが飲食を行うお店のこと。
お茶屋の店先には「許可証」が掲げられています。
舞妓さん・芸妓さんはふだん「置屋」と呼ばれる家屋に住んでおり、この置屋からお茶屋に派遣されます。
店先に自転車が停まっているお店は、お茶屋に料理を届ける「仕出し屋」。
お客さんの食事ペースに合わせて、なんと一品ずつ自転車で配達するとのこと。
祇園は分業制で成り立っており、質の高いサービスがお客さんに提供されています。
分業制が発達した理由は、また後でわかってきます。
- 仕出し屋:料理を作ってお茶屋に届ける
- 置屋:舞妓さん・芸妓さんをお茶屋に派遣
- お茶屋:手配などを行い、お座敷をプロデュース
建仁寺の境内が花街に
祇園メインストリートになっている「花見小路通(四条通以南)」ですが、実は明治以前は建仁寺の境内でした。
石畳が三角形状になっている場所まで建仁寺の境内が広がっていたそうです。
明治時代、政府の上知令により、建仁寺の寺領は約半分まで減少しました。
もともと建仁寺の寺領だった場所が払い下げられ、花見小路通が開通。
その後発展し、現在のような花街が形成されたのです。
明治元年に描かれた地図を見てみると、建仁寺の境内がとても広かったのが分かります。
一力亭
四条通と花見小路通が交わる角には、赤い壁が特徴的な「一力亭」があります。
一力亭は300年以上続くお茶屋で、赤穂浪士を題材にした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の七段では、大石内蔵助遊興の場として登場。
大石内蔵助の命日である3月20日には、赤穂浪士四十七士の木像を祀り、法要が営まれます(大石忌)。
花見小路通にある一力亭の入口ですが、実は昔は四条通にあったのです。
なぜ、入口は四条通から花見小路通に移されたのか。
その理由は、次の「八坂神社西楼門」から解き明かすことになります。
- 舞妓さん・芸妓さんは置屋からお茶屋へ行く
- 祇園は分業制で成り立っている
- 建仁寺の境内だった場所に花見小路通が開通した
ブラタモリ京都祇園②:八坂神社と花街の原点
東山と京都盆地の境にある西楼門
タモリさん一行は、花見小路通から四条通に出て、八坂神社へ向かいます。
八坂神社の西楼門は、「東山」と「京都盆地」の境に建てられており、タモリさんは東山を「聖」、京都盆地を「俗」と表現していました。
西楼門前の階段を一歩登ると、そこは聖なる地なんですね〜。
西楼門は大正時代に移築された
西楼門の近くには、「大正二年十一月、西門を移転改築為す」と刻まれた石碑があります。
この石碑が示す通り、西楼門は大正2年(1913)11月に「東へ6メートル、北へ3メートル」ほど移築されているのです。
なぜ、ちょっとだけ移築されたのか。
その理由は、大正元年(1912)に四条通に開通した「京都市電」にあります。
京都市電開通に際し、四条通は明治44年(1911)に北へ大幅に拡張されました。
これにより、道の中心がずれたため、風景を整えるために西楼門は移築されたそうです。
市電開通でお茶屋も移転
市電の開通により、四条通は老若男女、様々な人が行き交う道になりました。
大正元年(1912)、四条通に面したお茶屋は、規制によって営業禁止となり、四条通の両側にあったお茶屋は南側に移転。
上で紹介した「一力亭」が入口を四条通から花見小路通に移した理由はこの規制によるもので、大正4年(1915)へ花見小路側に移しました。
なお、西楼門移築やお茶屋移転の原因となった京都市電四条線は、自動車の普及による乗客数減少などにより、昭和47年(1972)に廃止となっています。
明治以前の八坂神社は「祇園社」
八坂神社の境内で、タモリさんは江戸時代に造られた「祇園社」と刻んである石灯籠を発見。
そう、八坂神社はもともと「祇園社(感神院とも)」という名前だったのです。
祇園という地名も、広大な社領を持っていた祇園社が由来となっています。
祇園社は創建当初から仏教色が強い神社で、古くは奈良の興福寺や比叡山延暦寺に属し、境内には薬師如来を祀る観慶寺(薬師堂)もありました。
お寺と神社がセットになった「祇園社」が「八坂神社」になったのは、明治元年のことです。
神仏分離令後の廃仏毀釈により、仏教語「祇園精舎」から取った「祇園」の名を捨て、社名を「八坂神社」に変更。
境内の観慶寺は廃絶となり、薬師如来を始めとする仏像や仏具は別のお寺に移され、神社のみが残りました。
【国宝】八坂神社の本殿
タモリさん一行は、通常入れない本殿内に入り参拝。
八坂神社の本殿は、本殿と拝殿が1つの屋根に覆われている「祇園造」という八坂神社にしかない建築様式となっています。
令和2年(2020)、めでたく国宝に指定されました。
中村楼
参拝を終えたタモリさん一行は、正門前にある「中村楼」へ。
中村楼は桃山末期〜江戸初期に創業の老舗料亭。
祇園豆腐(田楽豆腐)が名物で、江戸時代に行われていた「赤いエプロン姿の女性が三味線の音に合わせて豆腐を切るパフォーマンス」は人気があったそうです。
もともとは八坂神社参拝者用の腰掛茶屋から始まったという中村楼ですが、お座敷や美味しい料理、もてなす女性を提供するお店へと発展。
番組内では、「花街のシステムの原点」と紹介されていました。
- 京都市電の開通により四条通が拡張された
- 道の中心がずれたため、西楼門が移築された
- 八坂神社は明治以前「祇園社」だった
- 中村楼は「花街のシステムの原点」
ブラタモリ京都祇園③:寛文新堤による花街の発展
タモリさん一行は、一度祇園を離れて「お茶屋の分業化が進んだキッカケ」がある三条大橋へ。
ここには、寛文10年(1670)に完成した「寛文新堤(かんぶんしんてい)」の石垣が残っています。
寛文新堤とは?
平時は穏やかに流れている鴨川ですが、実は度々洪水を起こす川で、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたのは有名な話です。
暴れ川である鴨川の水害対策として築かれたのが寛文新堤です。
東は縄手通、西は河原町通まであった鴨川を大幅に狭め、石垣護岸が築造されたのです。
江戸時代初期、お茶屋があったのは祇園社の門前だけでしたが、寛文新堤により鴨川東側の開発が進み、四条通りの北を中心に茶屋町が形成されることになります。
また、祇園とは関係ないですが、鴨川西側にある「先斗町」も寛文新堤後に発展した花街です。
花街の発展で分業化が進む
寛文新堤の築造により、祇園は江戸末期にはお茶屋700軒、芸妓舞妓さん3000人以上という規模になったそうです。
お茶屋の増加により、とても1軒では賄いきれなくなったため、「お茶屋・置屋・料理屋」などの分業化が進んだということです。
- 寛文10年(1670)に寛文新堤が造られる
- 寛文新堤により四条通以北を中心に花街が発展
- 江戸末期にはお茶屋700軒、芸妓舞妓さん3000人以上
ブラタモリ京都祇園④:花街開発の痕跡
タモリさん一行は、三条大橋から再び祇園へ戻り、江戸時代、花街の中心だった四条通の北側で「花街開発の痕跡」を探します。
古い地図をよく見てみると、1つの通りだけ道がギザギザになっていることがわかります。
ここは、花見小路通の1本西にある「切り通し」と呼ばれる道。
道の東側は普通に一直線ですが、西側はギザギザになっています。
なぜ、このような形状の道が出来たのでしょうか。
解説によると、西側は縄手通り、東側は大名屋敷から中心に向かって花街の開発急激に進められ、その結果、町と町の間にいびつな土地が発生。
この土地に家屋が詰め込まれたことにより、ギザギザが出来てしまったということです。
- 江戸時代、花街の開発が急激に進む
- 切り通しの西側がギザギザになる
ブラタモリ京都祇園:まとめ
さて、ここまで紹介した内容から、日本一の花街である祇園がどのように出来たのかをまとめます。
- 江戸時代初期、祇園社(八坂神社)門前で参拝者をもてなす茶屋が軒を並べる
- 寛文10年(1670)に寛文新堤が造られ、四条通以北を中心に花街が急激に広がる
- 大正元年(1912)に京都市電が開通し、四条通に面したお茶屋は営業禁止に
- 花街は建仁寺の元境内である四条通以南に移転
かつて爆発的にお茶屋が広がった四条通以北は、クラブやスナックなどの「夜のお店」が軒を並べています。
ただ、数は少ないですが、お茶屋さんもあります。
- 京都大事典 著者:佐和隆研 1984